国際補助語としての英語
英語のヘゲモニーから自由な立場となって、英語教育ははじめて教育の名に値する。
ゼミ紹介の「言語多様性と消えゆく言語たち」のページでも書いたように、世界には7000以上もの言語があるといわれています。そのなかで、私たちはなぜ「外国語=英語」といわんばかりに英語を特別視しているのでしょうか。そのことを考えるために、まず世界の言語の母語人口ランキングからみてみることにしましょう。「母語人口が多い言語トップ10をあげなさい」といわれたら、みなさんはどの言語をあげるでしょうか。「英語!」と思った人も少なくないと思いますが、正解は、中国語です。The Penguin Factfinder(2005)によると、世界の母語人口トップ10は、①中国語(885)、②英語(400)、③スペイン語(332)、④ヒンディー語(236)、⑤アラビア語(200)、⑥ポルトガル語(175)、⑦ロシア語(170)、⑧ベンガル語(168)、⑨日本語(125)、⑩ドイツ語(100)です(カッコ内は人口で単位は100万人)。中国語は、英語を大きく引き離して1位の座についています。一方「世界共通語」の呼び声高い英語の母語人口は、中国語の半数にも満たないのです。しかし、ここで私がいいたいのは中国語、英語をはじめこれらのトップ10の大言語が「偉大な言語」で「他より学ぶ価値のある言語」だということではけっしてありません。むしろ、ここにあがらなかったその他約7000の言語に目をやってほしいのです。トップ10の人口を足し合わせると約27億9100万人になります。つまり、これら大言語の母語話者が世界の人口のかなりの割合を占めているのです。いいかえれば、世界にはおびただしい数の少数言語が存在するということです。しかも、今日明日にも最後の話者を失うだろう消滅の危機に瀕している言語が、世界にはたくさんあるのです。
英語に話を戻します。母語人口で中国語に1位の座をゆずる英語には、ある特性があります。それは、ネイティブスピーカーの人口をはるかに上まわるノンネイティブスピーカーが世界中に存在し、ノンネイティブ同士の英語会話が世界中でおこなわれているということです。つまり、中国語話者のAさんとスペイン語話者のBさんが、お互いの言語を話せないため英語でコミュニケーションをはかる、というようなケースが世界のいたるところで起こっているということです。こういう言語はほかに類をみません。別のいい方をすれば、英語は世界の多くの地域で「支配言語」として他の言語よりも優先的に使用されているのです。
このことを考えると、英語教育の目的とは何か、私たちは英語とどのように付き合っていくべきか、という問いへの答えがみえてきます。ここでひとつの英語の捉え方を紹介します。「国際補助語(のひとつ)としての英語(EIAL:English as an International Language)」とう考え方です。アメリカの社会言語学者ラリー・スミス氏は、以下のように述べています。
English is an international auxiliary language. It is yours (no matter who you are) as much as it is mine (no matter who I am). We may use it for different purposes and for different lengths of time on different occasions, but nonetheless it belongs to all of us. English is one of the languages of Japan, Korea, Micronesia, and the Philippines. It is one of the languages of the Republic of China, Thailand, and the United States. No one needs to become more like Americans, the British, the Australians, the Canadians or any other English speaker in order to lay claim on the language. (Smith 1976)
英語は国際補助語である。それは(あなたが誰であれ)あなたのものであり、(私が誰であれ)私のものである。使用する目的、時間、場面は異なるかもしれないが、それでも英語は私たち皆のものである。英語は日本、韓国、ミクロネシア、それにフィリピンの言語のひとつであり、中国、タイ、アメリカの言語のひとつでもある。誰も英語を使用するからといってアメリカ人やイギリス人、オーストラリア人、カナダ人やその他の英語母語話者のようにふるまわなければならないということはない。(スミス 1976)
以下にざっとEIALの考え方をまとめてみましょう。
〇異文化間コミュニケーションではお互いを尊重し、相手を理解することが大事。
〇できれば自分や相手の言語を話したい。でも世界中の言語をマスターするのは不可能。
〇英語を「自分らしさを発信するための共通語」にしよう。
〇となると英語はもはや英米だけのものではない。多様なEnglishes(複数の英語)があっていい。
〇英語は世界中の国や地域のものであり、みんなのものなんだ。
〇英語学習の目的は、欧米人のようになることではない。
〇むしろ、自分らしい英語で自分を表現し、相手のそれを理解するよう努力することだ。
〇あいさつや「ありがとう」くらいは相手や自分の母語を使おう。
〇アメリカやイギリスの英語だけが「正しい英語」なのではない。
〇インド英語、フィリピン英語、Chinese English、Singlish…は「間違った英語」でも「変な英語」でも「なまった英語」でもない。みんな「正しい英語」なんだ。
〇ということは、日本英語(Japanese English)も例外ではない。
〇自分らしい英語をデザインすればいいんだ。
と、こんな考え方がEIALの言語観なのです。たとえば、He burnt his eyebrows for the final exam. という英文をすぐに理解できるでしょうか。試験のために眉毛を燃やした!?べつにテスト勉強のストレスから危ないことをしていたわけではありません。じつは、「彼は期末試験のために一生懸命勉強した。」という意味です。フィリピンで話されているタガログ語に「一生懸命勉強する」を意味する「眉を焦がす(magsunog ng kilay)」という慣用句がありますが、この文はそれを用いた、いわば「フィリピン英語」です。ほかにも、中国語話者が「Add oil!」といったら「頑張れ!」の意味です。これは中国語の「加油!」を直訳して彼らがつくった中国英語(Chinese English)です。英米の英語のみを学んできた私たちは、こういう表現を知りません。しかし世界をみれば、アジアやその他の地域のEnglishesでは各々の文化・慣習・価値観を、自分たちの発音で、じつに豊かに表現しているのです。では日本人の英語はどうでしょうか。「日本英語」で自らの文化・慣習・価値観を表現しているでしょうか。いや、むしろ日本的なあいまい表現や謙遜表現は「国際的じゃない」とされ、クリエイティブな和製英語の数々は、「ネイティブはそんなこといわないよ」、日本人的発音は「日本人なまりはダサいよ」と一蹴されるのがオチです。さらには、達成できるはずもない、またする必要もない「ネイティブのように話す」を目標にした英語観に、日本社会全体が翻弄されているのです。
大事なのは、ことばは話者の価値観やアイデンティティを運ぶものだという認識です。そこに立脚すれば、自分らしい英語を身につけて使用すること、相手らしい英語を受け入れ、理解に努めることこそが英語学習の目的であるべきなのです。また、「長いものに巻かれよ」式で支配言語としての英語を教授することから脱却してはじめて、英語教育は教育の名に値するといえるでしょう。